要らないけれど確かに必要な発想
わたしは、人の考えに触れるのが好きなんです。
人が1人で使いこなせる視野の範囲というものは、どうやっても狭くて・・・広げても広げても、他の誰かが持っている視野にはかなわない。本気で考え、本気で取り組む人の発想というものは、強烈な刺激になりえる・・・わたしはそんな風に思うのです。
ある人は、「ひとつの発展途中の乗り物」において失敗が続いたからと改良する際、素敵な発想をして、現在の日本という国の在り方を変えてみたり。またある人は、一台の車がきちんとあって普通に走ってくれるのに、それに火柱を吹き出すジェットエンジンを足して必要も無い強烈な馬力を得てみたり。
人に必要とされる発想と、人に必要とされない発想。創作やエンターテイメントにおいて、より必要とされるものってたぶん後者だと思うんです。
ふたつのアイデアをひとつにまとめ上げる時、その組み合わせる方法が型通りであるのか型破りであるのか・・・
『こんなの世界でわたしにしか思いつけるハズないぜ!』・・・という奇抜な物を発想する手順は、こういった「融合方法」にあると思うのです。
でも、普遍的に広まりすぎて、一般化してしまった融合方法もありますよね。奇抜な流行り物が普及してみんなが同じ格好をしてしまって普通になったりとか・・・ヒト+もふもふ=「ネコ耳」「ネコしっぽ」を、ありとあらゆるキャラクターがとっかえひっかえやっているなどなど色々。
それとは逆に、忘れ去られてしまった融合方法が、過去の資料に眠っていたりも。
わたしがまだ幼稚園ぐらいの頃、世間の女子高生たちは「ルーズソックスとガングロ、そしてポケベル」の時代のようでした。顔のあるお魚とおしゃべりできるゲームもあったような。・・・テレビ越しで見た狭い世界の限りでは・・・ですが。
ああいった時代には他にも、「生きるのに必要はない、なのに型破りで、奇抜な融合方法」で、確かに冷静さを奪っていくのに、後になったら「なにやってたんだろう」となり得る物たちが、たくさんあったのかな。いいえ、きっと今の時代にもそういう物に触れにくいだけで、きっとあるはず。
エンターテイメントは、あらゆる意味で冷静さを奪う物。そして、人間って冷静になろうとする生き物だから、ほんの一瞬冷静さを奪うことに全力を注げばいいのかなって、ちょっと考えてました。