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生まれたいわたし、曲げられたわたし

2019年06月01日 04:34

紆余曲折を経て、ココロが生まれ直すことが出来た今だからこそ・・・

辿ってきた道筋を、思考の軌跡を、できうる限り書き記しておきます。

 

・ココロと個性は別のもの。しかし一対で機能する。馴染まない個性は自分の心を浸食する。近い個性を探し、古いものを削ぎ落として、自分にすっと入ってくるものを選べば良い。

・自分自身を愚かだと思うならその原因、"なぜ"を考えよ。愚かと嘆き続けるのは、皿に食事が無いと嘆くだけの思考停止だから。

・『他人に認知された自分』は、自分が周囲の環境に歪曲された要素をも解析され含まれる。認知された自分を疑う事は解決の近道。間違えた認知をした人の分析の甘さも糧に出来る。

 

・医療の治療限界と同様、心理学の治療限界がある。人の心を必ず助けられるわけではない。肉体という器の中で心はゾンビになれる。ゾンビに時間と心の電池を使いすぎないで。

・心の電池を奪いに来る者を突き放すには、先に距離を置き心の電池を充電する必要がある。充電速度を超える消費量の中でその悪循環を断ち切るのは難しい。

・心の電池を過剰に捧げる人は、己に注げるようになって貰うために離れよ。離れなければ永遠に己を磨くために使う事は出来ない。

・己の弱さを認めないもの、弱さを認めながら人に補われる事を戒めるもの。救済の手を振り払う。手段を厭わない心の有無を見よ。

・ココロを鎖国することで自身を守る道を選ぶ者が居る。そういう人は、人と自分を比べきれない。だから人を見極めきれない。

 

・無責任かつ思いつきで行動する人の言葉は、発言者の胸には響いていない。重たい言葉には必ず口にする前に自分の胸に響いている。

・暴論を司るもの、己を司ること叶わず。暴論は自らの無力を棚上げ出来る、人に向けたナイフでかますハッタリでしかない。

・他人の語る理想郷や誘惑を聴いたら、観賞魚を鳥籠に住まわす危険と思え。その上で魅力を見出せるなら採り入れる一考の余地有り。

・無意識に背負った「使命感」を棄てるコト。生きるために必要な使命感はとても少なくシンプルだから。

 

・人はバグる。無限ループの思考に陥り、自己解決不能になる。

・人は本から学ぶもの。しかし同時に、人の振る舞いから糧を会得することもまた才能である。本からしか学べないものは、世界を租借できないのと同じこと。

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わたしというクリエイターに必要なもの

2017年01月17日 21:20

未来のわたしが読み返せるように書き記す。その3
世間一般の感じ方よりも、わたしが感じたコトを書き記すためのもの。

小さな頃、黄緑色のかわいらしい砂時計を眺めては手の中で転がして、
右へ行かせて、左へこぼして。たまに半分ずつくらいにわけてみたり。
そんな風に遊んでいた覚えがあります。

その砂時計の両側に、あえて名前を付けてみましょう。
夢と現実・・・と。

わたしは趣味以上に作曲と、趣味程度に小説を書いています。

今のわたしは、作曲が上手く出来ず、文章を書く方に重きが強くあります。
文章が書けないときは作曲の方が上手く行く、そういう不思議な"波"があります。

そこでぴんと来たのです。砂時計の右と左・・・夢と現実。
作曲は夢が多いときに書きやすくて、小説は現実が多いときに書きやすいのだと。

小説は現実から夢への冒険。作曲は満ちあふれた夢の発散。
そうしたとき、五月病は夢から現実への逆流とでもいいましょうか。。。

人によってこの夢と現実の配分によって作れる物は変わると思います。
ですが、夢と現実の砂時計がいったりきたりを繰り返すことは
「想像力」に直結するのだと思います。

夢と現実を行ったり来たりさせているうちにいろんなコトが諦めきれなくて。
気が付くと、綺麗な緑色の砂の中に、黒いつぶつぶが入っちゃっているんですね。
それをこまめに掃除してあげることが、わたしというクリエイターに必要なんでしょう。

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人間らしさに必要なもの

2017年01月15日 16:00

未来のわたしが読み返せるように書き記す。その2
世間一般の感じ方よりも、わたしが感じたコトを書き記すためのもの。

前回の投稿では、感受性を鉢植えに咲いている花の葉だと書き記したけど、
その葉は双葉両方でひとつのペア。どちらが欠けてもよろしくないのだと判りました。

葉のひとつは、想像力。
責任感、危機感、義務感、罪悪感などなど・・・人は「想像」することが出来ます。
理想を求め、思い描く。困難を打開する方法を探すのも、この想像力です。

もうひとつは、表現力。
言葉使いとその音程と抑揚と速度、表情、身振り手振り・・・人は「表現」します。
音楽、絵、文章、舞踊。言葉に限らず、人はあらゆる表現方法を用います。

想像力と表現力は、バランスよくなくてはいけません。
想像力だけが強くなれば、たとえば被害妄想が頻繁になって他人を恐れて沈黙してしまい、
表現力だけが強くなれば、たとえば自己主張ばかり激しくなりやがて嫌われる。

幼い子供は、幼いなりの想像力と表現力を駆使して生きています。
それは「原始的な感情」であって、人の中で生きていくための方法とはかけ離れたものです。

「原始的な感情」を、人との中で使うに相応しい「文明的な感情」に置き換えていくこと。
人間として相応しい成長とは学力だけではなく、こういうものこそ必要なのだと思います。
このとき、決して想像力と表現力のどちらに偏っても好ましくないのだと思います。

感受性とは想像力と表現力であって、素敵な人間であるために必要な要素だと思います。

もしかすると
あなたの近くに居る「苦手な人」は、想像力や表現力が親しい人よりも鈍かったりはしませんか・・・?

(以前にも似たようなことを書いていたけど、
クリエイターに必要という意味と、人間らしさに必要という意味とで違いますね。)

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2016年、そのビッグウェーブを超えて

2016年12月05日 12:25

2016年も終わりがけですね。
わたしはこの1年間の間に、一人の親友と、一人の恋人との分かれを経験しました。
その経験から学んだことを、ざっくりと纏めて書き記しておこうと思います。・・・いつか未来のわたしが忘れた頃、また読めるように。

前置きとして・・・わたしのココロの有りようを感覚的に書き起こしただけなので、みなさんのココロの有りようとは違うかもしれません。
ですが、自身のココロのコトがよくわからないっていう人に、もしも一助たる言葉となるならば、それは何にも代えがたい幸いであります。



~友人とはなにか。恋人とはなにか。人との出会いのはじまりとは~

わたしのココロにおいて、それは等しく一目惚れなのだと思います。

思い出をしまっておく小箱があるとします。小箱は、出会った人の中でも少しでも特別に感じた人達、その全員の分だけあります。
思い出は良いも悪いも全部まとめて、その人のために用意された小箱に入っていきます。
大切なのは、小箱そのものがどんな色をしているかです。
友達は黄色い箱で、恋人は桃色の箱。他にも様々な色があるのでしょうけれど、出会った瞬間に決定されたその箱の色は絶対不変なのです。
一目見た瞬間に決定され、目を見つめるだけで良い友達となれると確信を抱き、ひとつの言葉を交わすことさえなく恋に落ちることが出来るんです。

・・・わたしの心は、どうやらそういう風に出来ているようなのであります。

ただシンプルに、想っている人が抱えているわたしのための箱の色が、もしかしたら恋色に染まっていはしませんか・・・と。
そう尋ねるための言葉が、わたしにとって「告白」の意味するところなのです。

告白した相手がココロに抱えているわたしのための箱の色が変わることも、わたしが誰かに告白されたからと箱の色が変わってしまうこともありません。
だから、告白したとしても上手く行かないし、思いがけないところで縁が繋がることもあるのでしょう。

同時に、友達になろうといわれたからなれるものではないのであります。
共通の趣味で語り合えている友達っぽいそんな人達は、共通の話題が無くなってしまえば音も立てず、すっと消えてしまうでしょう。



~友人・恋人・親族 その親密な関係さえも枯らし果てさせるものとは~

少し、考えてみて下さい。
人間は、どのようにして人間の心を獲得するのでしょうか。

わたしはその獲得の過程を、花の成長に似ているなと思いました。

ひとりひとり違う種を持っているわたしたち。その種が本来持っている花を咲かせることさえ難しいのは、自分か、世界か、その両方が理想的ではないのです。
「土」が栄養に満ち足りて、「根」は太く頑丈で、「茎」は支えられながらも逞しく、大きく拡げた「葉」から受け取る光に素直になれれば、花は育ちます。
これを人間が心を獲得する過程に置き換えると、こうなるのではないでしょうか。。。

ひとつ・親の愛、もしくはそれに準ずる愛。
ふたつ・生きる道を貫く信念。目的。精神。
みっつ・目的へと手を伸ばすとき、己の過ちを臆することなく正してくれる友人。
よっつ・声を聴き、表情を捉え、肌で感じる。人の言葉からエピソードをときほどける感受性。

この四大要素のうち三種類は兼ね備えた人同士でなければ、どんなに見かけだけはよく見える人間関係でも、いつか必ず崩壊すると、わたしは思います。

愛の不足は依存を招きます。愛されたいと願う一方で愛されている事実を認識出来ていません。注いだ愛は、水を蓄えない土に吸収されず流れていきます。
信念の不足は折れやすい心を生み出します。自分の中で確固たる自信のない人は困難にあっさり負けて、自分で解決する事をせず、沈黙したまま流されていきます。
誰ひとり、親友さえも正してくれないなら、人の心は曲がり続けます。悩みを打ち明けられるに値する信頼できる友人がない人は、抜け出せない沼に陥ります。
聞かざる見ざるで生きる者に言葉は届きません。本当に伝えたいことを受け取る耳も目も無い相手では、こちらの努力全てが立ち消えてしまうだけだからです。

わたしは、この四大要素がある一定以上に不足している人間のことを、愛を知らない人・幼い人と定義してます。
まるまるひとつ欠けてしまっても他のみっつが強ければセーフなのですが、まるっとふたつ以上欠けてしまった人は、絶望的です。
その人のための箱がちゃんとあったとしても、いつのまにか相手のペースに巻き込まれ、自分のペースを乱されていくのです。


もし、あなたが人間関係で苦しんでいるなら、相手がそういう幼い人間か愛を知らない人間ではないか疑ってみて下さい。
自分自身の心には、友人や恋人としての箱がちゃんと存在しているか、「仁義のギブアンドテイク」はバランスがとれているか。
そういったものをひとりひとり個別に順番に見つめ、問いかけ直してみて下さい。
大きな問題に見えていても、器用に分解してみると、とても簡単に解決策を導けるかもしれません。

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あまりに綺麗すぎる言葉

2016年09月14日 14:40

あるところに、幼い少年と、その少年と同い年の少女がいました。

人と人との巡り合わせの中で、自然と出会った二人には・・・
それぞれ、ちいさな傷がありました。

少年は、自分の言葉を持たなかった人
自分を信用せず、自分の言葉も信用しない。
本の中の言葉や、誰かの言葉だけを信じて・・・
自らもそれを使えば、誰も傷つけずに済むのだと。

少女は、人の綺麗な想いに触れられなかった人
人を信じたくても、いつも何かに裏切られ続けた。
その傷を自分で治せない幼い少女は・・・
心の不安を宝箱に閉じ込めて、いつしか忘れていた。

二人はいつの間にか・・・抜け出せない渦へと落ちて行く

少年は、綺麗な言葉だからぼくも使おう、そんな理由で告白の言葉を口にした

少年にそのつもりはないのに、少女はそれを受け取ってしまう
どこかのだれかに創作された、あまりに綺麗すぎる言葉を、言葉のままに

少女は、その言葉を、少年のことを・・・
悪意の無い嘘の告白を信じていく・・・
自らの傷を直してくれるかもしれないと、有りもしない希望へ目がけて

~~~

どちらも悪くない・・・けれど、どちらも悪い。
そんな事が起こるとしたら・・・
お互いに、選ぶ道を少しずつ間違えてきたまま出会った・・・
そういうことなんでしょう。

その後、少年と少女は、上手く行くことはないでしょうね。
それでもお互い・・・経験を糧にして切り開いた、別の未来で輝けることでしょう。

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「言いたいこと」と「言い表すこと」・・・「聴いていること」と「感じていること」

2016年03月21日 23:30

創作について、時々は人生についても、わたしは考えている物であります。

たまに話題に出るのですが、創作の上手と下手の境界線ってどこだと思いますか。

 

例えばです。

誰かが好きな相手に告白しようとして必死で選んだ言葉があったとしたとき・・・アクシデントを起こさせないとしたら、創作上で選択できる道は4つです。

告白する側が「言葉に上手く出来た」「言葉に上手く出来ない」

告白される側が「言葉を理解できた」「言葉を理解できない」

 

言葉に上手く出来ると出来ないのでは・・・「好きです」と「胸が苦しい」ぐらいの違いがあって、

言われて理解する側には・・・平たく言えば「敏感」と「鈍感」ぐらいに違いがあるのですね。

 

この分岐方法が・・・音楽やイラスト等々、多岐にわたる創作全般に当てはまります。(この場合では日常会話さえも創作として考えてます)

作られた作品が人々の心に届くには、「自分が上手く言い表せること」と、それを「敏感に聞き取って理解してくれること」

この二つが揃った時、初めて感動が生まれるのだと思います。

さらに、話術が巧みになってくると、「表現したつもりのないものを感じ取ってくれる事がある」のが面白いところでもありますね。

 

ですから創作をする人は、「上手く話せる話術と、聞き取る感受性」その両方を精一杯鍛えなくちゃいけないんです。良い表現力は良い感受性から、です。

それを怠ると、怠った分だけ作品は・・・手紙に書かれた字がきたなかった時のように、伝わりにくくなっちゃうと、そう思いませんか?

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要らないけれど確かに必要な発想

2016年02月24日 00:30

わたしは、人の考えに触れるのが好きなんです。

人が1人で使いこなせる視野の範囲というものは、どうやっても狭くて・・・広げても広げても、他の誰かが持っている視野にはかなわない。本気で考え、本気で取り組む人の発想というものは、強烈な刺激になりえる・・・わたしはそんな風に思うのです。

ある人は、「ひとつの発展途中の乗り物」において失敗が続いたからと改良する際、素敵な発想をして、現在の日本という国の在り方を変えてみたり。またある人は、一台の車がきちんとあって普通に走ってくれるのに、それに火柱を吹き出すジェットエンジンを足して必要も無い強烈な馬力を得てみたり。

人に必要とされる発想と、人に必要とされない発想。創作やエンターテイメントにおいて、より必要とされるものってたぶん後者だと思うんです。

ふたつのアイデアをひとつにまとめ上げる時、その組み合わせる方法が型通りであるのか型破りであるのか・・・

『こんなの世界でわたしにしか思いつけるハズないぜ!』・・・という奇抜な物を発想する手順は、こういった「融合方法」にあると思うのです。

でも、普遍的に広まりすぎて、一般化してしまった融合方法もありますよね。奇抜な流行り物が普及してみんなが同じ格好をしてしまって普通になったりとか・・・ヒト+もふもふ=「ネコ耳」「ネコしっぽ」を、ありとあらゆるキャラクターがとっかえひっかえやっているなどなど色々。

それとは逆に、忘れ去られてしまった融合方法が、過去の資料に眠っていたりも。

わたしがまだ幼稚園ぐらいの頃、世間の女子高生たちは「ルーズソックスとガングロ、そしてポケベル」の時代のようでした。顔のあるお魚とおしゃべりできるゲームもあったような。・・・テレビ越しで見た狭い世界の限りでは・・・ですが。

ああいった時代には他にも、「生きるのに必要はない、なのに型破りで、奇抜な融合方法」で、確かに冷静さを奪っていくのに、後になったら「なにやってたんだろう」となり得る物たちが、たくさんあったのかな。いいえ、きっと今の時代にもそういう物に触れにくいだけで、きっとあるはず。

エンターテイメントは、あらゆる意味で冷静さを奪う物。そして、人間って冷静になろうとする生き物だから、ほんの一瞬冷静さを奪うことに全力を注げばいいのかなって、ちょっと考えてました。

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ヒカゲノトキ

2016年02月05日 00:45

もう五年も前の話になるのですが・・・

ProjectMolla樣 ヒカゲノトキ は、背中に翼を持つ種族を中心に世界を巡る・・・そんなお話になるようでした。

ですが、色々な事情や諸々のもつれが起こり、結果として制作は中止になってしまいます。

先日、ホームページを公開するにあたって、お蔵入りになっていた曲の一部をクロスフェードにして公開したのです。いえ、したくてホームページを拵えた意味合いが強いですね・・・。それくらいに、少なくともわたしは思い入れていた作品だったのですが・・・。

そもそもの原因は「発起人の見切り発車」なようでした。

プロジェクトが始動した2011年1月5日、およそ半年分のスケジュール表が配られたのです。その二週間ほど後にあたる1月22日に届いたメールの文面を要約すると・・・

シナリオやキャラクター設定等の見直しに時間を要するため、一月ずつずらして作業を開始したいと思います。

開始2週間ちょっとで作業が遅延するとはどういうことなのでしょう・・・。ここから、このプロジェクトはどんどん遅れていくのです。

メールを読み直す限り、設定の練り直しに使われた時間がスケジュール遅延の大半を引き起こしていたみたいで・・・。

例えば、背中に翼を持つ種族の事を当初「翼人(ヨクビト)」と呼んでいたのですが、発起人さんの居住地域と、そうではない居住地域のスタッフ同士が「音読みと訓読みの呼び方の違いで」大もめ。方言やイントネーションが互いの常識と衝突してしまったのですね。最後にはスタッフ全員に意見を求めるメールが・・・最終的に「ツバサビト」へと変更されたこともありました。

そういう設定の練り直しを行っている間、ほかのスタッフさんはというと・・・、もともと二、三ヶ月に一曲という変わった作業タイミングだったBGM担当は、さらに待たされることになるのです。・・・今になって思えば、これを不安要素として感じ取るべき出来事だったのですけどね・・・。

世界観が広大な冒険物で、結構気に入っていたビジュアルが多かったのです。

世界観のパーツだけを一部あげれば「魔法都市」「忘れられた廃村」「風車の見える山間の町」・・・あとちょっとかわった注文として「ケルト音楽」を書いて欲しいと頼まれたこともあったりして。いろいろな曲調に対応するための柔軟性を経験することが出来た場所でありました。

とはいったものの、好きとスケジュール遅延は別物で・・・

途中で一度「作業期間が長期間になってしまったので、継続して参加してくれるかどうか今一度判断してほしい」と確認されたことがありましたから、てっきり作品を完成させる意欲があったのかと思いきや・・・

プロジェクト開始から二年後の夏を前にして、一応は欠かさなかった二週間に一度の定期連絡も数ヶ月にわたってこなくなり、発起人さんが制作意欲を喪失されてしまった様子・・・。

これはもう見限るべき・・・とわたしの方から三行半をつきつけて終わりを迎えたプロジェクトでありました。(幸い、プロジェクト離脱を意思表示した時には既にプロジェクト中断の方向で固まっていました)

公式ページは消失して、作品としてのカタチも残りません。わたしが作った曲はもちろん、スタッフ全員の努力の結果が行き場を失ってしまいます。

創作者を集って何かを作り始める人には・・・きちんと完成への道筋を見極めていただきたいですね。

そして、それに参加すると自ら決意したからには、きちんとやり遂げたいと思うのです・・・。

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2016年01月23日 12:30

お初にお目にかかります。作曲家のAyukaです。

今回、ホームページを作ってみるべきかなと思いまして、作ってみた次第です。作曲を初めてから10周年を迎える節目の年ということもあって、張り切りました。・・・特にスマホの方、見づらくないでしょうか・・・

だいぶ以前、まだ光ファイバーなんて通っていない時に身内用のホームページをとても粗雑な作りで作ったことはありますが、そのときの経験が生きている部分もありまして、経験とは積むべきものだと、改めて実感していたり。

なによりも今回のホームページでは、今までちょっと不透明気味だったAyukaの活動がちょっとはわかりやすくなればいいな・・・と思ったところが大きいのです。

あと、ブログを書くのも初めてなので、戸惑い半分、続くのかなと不安半分ですが、気が向くままに書き綴っていけたらな・・・と。

それでは、今回はこのへんで。

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